医療とモデル

実世界とモデル

物理的な実世界のすべての要素を人間はとらえることができない。たとえば、レオナルド・ダ・ビンチが描いたモナリザ。天才の描いた絵を見ても、モナリザの一部しかとらえることはできないが、その一部だけでも,もし別の場所で,別の日に本物のモナリザとあったら,即座にそれがモナリザであるということが分かるだけの情報をわれわれは抽出して記憶にとどめている。その情報はモデルと呼ばれる。

たとえば,肺結核患者の胸部X線,CTスキャン,MRIそれぞれの画像は異なって見えるが,同じ肺の病変を画像情報として表したものである。これら画像は肺結核病変のモデルであるといえる。

人間は実世界をモデルとしてとらえている。モデルとしてとらえるだけでなく,モデルを通して実世界と相互作用を持っている。モデルは実世界の属性の一部を抽出して作成され,その詳細さにおいて実世界より粗であり、重要でないと考えられた要素は無視される。何を抽出し,何を無視するかはモデルを作る者の意図やモデルの使用目的によって異なる。したがって,同じ実世界から数多くのモデルを作ることが可能であり,モデルは使用目的に対して良いか悪いかということは言えるが,一番正しいモデルというものはない。

モデルは実世界から抽出して作られるだけでなく,実世界に働きかけるために用いられ,たとえば建築物あるいは製品などのオブジェクトを作成するのに使われる設計図もモデルである。設計図というモデルの基づいてオブジェクトが作られ,実世界に新しいオブジェクトが出現することになる。その場合,モデルはその使用目的に応じて,さまざまな仮定を前提としていることが多いので,別の仮定あるいは別の状況では同じモデルが機能しないこともある。モデル作成の際の仮定によってモデルを使用する際の限界が決まってくる。

モデル作成時の状況や前提が異なる場所ではうまく機能しない可能性がある。たとえば,血圧測定値が140/90 mmHg以上の場合には高血圧であるというのは、高血圧のモデルをそのように作ったからである。以前は160/95 mmHg以上を高血圧と定義していたが,そのモデルを用いて実世界と相互作用を行った結果,つまり高血圧の患者の診断・治療・フォローアップを行った結果,もっと低い血圧でも脳卒中の発症や心筋梗塞発症の頻度が高いことから,高血圧のモデルを変更したのである。また、糖尿病などの合併症によって目標とする血圧を低めに設定するのも,血圧測定値以外の条件によって,すなわち前提が異なる場合には,異なるモデルを適用することを行っていることになる。

また,モデルを通して実世界に働きかけて,モデルの目的がうまく実現できない時には,モデルを変更することも行われる。たとえば,早朝空腹時血糖が140 mg/dl以上を糖尿病とした診断基準が現在は126 mg/dl以上に変更されているが,これは糖尿病による合併症の発症や予後の研究から,より低い値にすることによって,合併症の発症を低減化し,予後を改善できることが分かったからである。


1つの例

アメリカ高血圧合同委員会JNC-7報告

"The Seventh Report of the Joint National Committee on Prevention, Detection, Evaluation, and Treatment of High Blood Pressure"
(http://jama.ama-assn.org/cgi/content/full/289.19.2560v1)

(1) 50歳を超えると、収縮期血圧 >140mmHgは拡張期圧よりはるかに重要な心血管系疾患の危険因子である。

(2) 心血管系疾患のリスクは 115/75 mm Hgから上昇し始め 20/10 mm Hg増加するごとに2倍になる。55歳時に正常血圧の人は生涯で高血圧を発症するリスクが90%ある。

(3) 収縮期圧 120 to 139 mm Hg あるいは拡張期圧 80 to 89 mm Hgの人は高血圧前症とみなすべきで、心血管系疾患を予防するために健康な生活習慣を推進する必要がある。

(4) サイアザイド系利尿薬は合併症のない高血圧患者の大部分の治療で単独あるいは他のクラスの薬剤と併用して用いるべきである。いくつかの高リスクな合併症がある場合には最初からその他のクラスの降圧薬が適応となる(ACE阻害薬、ARブロッカー、カルシウムチャンネルブロッカー)。

(5) 高血圧患者の大部分は目標血圧の達成に(<140/90 mm Hg,あるいは糖尿病、慢性腎疾患の場合には<130/80 mm Hg)、2種類以上の降圧薬が必要である

(6) もし血圧が目標血圧より 20/10 mm Hg 高い場合には、2つの薬剤を開始することを考慮し、そのうちの1つはサイアザイド系利尿薬とする

(7) 最も注意深い医師により処方された最も効果的な治療は患者が動機付けされた場合にのみ高血圧をコントロールできるであろう。動機付けは患者が医師を信頼し、前向きの体験をしたときに強化される。共感することは信頼を増幅くし、動機付けを強化する。これらのガイドラインを発表する中で、委員会は主治医の判断が一番重要であることを認識している。

Cardiovascular Risk Factors
Major Risk Factors
Hypertension
Cigarette smoking
Obesity (BMI>30)
Physical inactivity
Dyslipidemia
Diabetes mellitus
Microalbuminuria or estimated GFR <60 mL/min
Age (>55 years for men, >65 years for women)
Family history of premature cardiovascular disease (men <55 years or women 65 years)

情報と知識

データ,情報,知識 (data, information, knowledge)の3つの言葉は明確な使い分けがなされていない場合が多いが,これら3つにはhierarchy階層構造がある。データは事実の集積である。データがある文脈の中で解釈されると情報になる。その文脈は知識によって与えられる。知識はわれわれのこの世界の解釈を記述する一連のモデルの集まりである。データはそれだけでは何の意味も持たない。データに言語による解釈が加えられると,データに含まれている概念を引き出すことができる。モデルの中に蓄えられている知識によってデータからその意味を推測することができる。

医療システム

モデルを組み合わせて全体として機能するようにしたものがシステムである。システムは実世界の動態を説明するために実世界から抽出したものか,あるいは特定の目的を持った規範型としてデザインされた構造物である。システムは一定の構造,動態(行動形態),機能を持っている。システムは環境中に埋没しており,任意で,目的を持っている。情報システムは一連の活動を遂行するために開発され,その機能はモデル作成modelling,測定measurement,運用managementのサイクルの繰り返しによって特徴づけられる。

たとえば,喘息の治療に関するガイドライン(Global Initiative for Asthma:http://www.ginasthma.com/ を参照)では,患者の症状,ピークフロー値に基づいて,Step 1から4まで分類し,それぞれのステップに対して,長期予防的治療Long-term preventiveと急速緩和治療Quick-reliefが決められている。これはモデルであり,多くの喘息患者のデータとそれからもたらされる情報に基づいて作られたモデルである=モデル作成。これを実行する場合には,{喘息の診断をし,患者の症状をとらえ,ピークフローを測定し}=測定(すなわちモデルに合致するかどうかを測定して決め,患者の状態を測定する作業),{その結果に基づいて,治療を行う}=運用する(すなわちモデルに従って,現実世界に働きかける)。その結果,患者の状態がどうなるか観察し,モデルに照らし合わせて,治療効果を判断する。これは喘息患者がよりよい状態で生活できることを目的にしたシステムである=特定の目的。たとえば,高血圧の管理を目的にしたものではない。また,このシステムをすべての喘息患者にそのまま厳密に適用する必要はなく、その使用は医師と患者の任意性に任されている。このシステムは患者や医師の手のひらに乗っているわけでもなく,ガイドラインとして本の中,あるいはホームページ上に書かれてはいるが,実態としては環境中に埋没しているといえる。このように,このシステムはModelling→Measurement→Managementの三つの要素がサイクルを描いて,機能している。

医療ではさまざまなシステムを用いているが,多くのシステムは固定されたものではなく,新しい医学的知見によって,フレキシブルに変更されていくものである。

図1システム。情報システムは3つの要素のサイクルで一連の活動を遂行する。



定型的なシステムと非定型的なシステム

モデルやシステムにはformal定型的なものと,そうでないinformal非定型的なものがある。定型的なモデルやシステムはどの患者にも適用され得るものであり,非定型的なモデルやシステムはそれに加えて個々の患者にあわせて適用されるものである。定型的なものは汎用性があり,非定型的なものは一時的で個別のものである。

たとえば,診療ガイドラインは治療に関して方針を示すが,個々の患者に適応する場合には,年齢,重篤度,合併症,副作用などさまざまな要素によって,非定型的な部分を加えて用いられるのが普通である。一方,臨床治験の場合には厳密なプロトコールの適用が求められ,ほとんどが定型的なモデルが占めることになる。

新しい医学知識は定型化されたモデルやシステムとして生み出されてくる。それをわれわれは常に取り込んで,自分の医療のシステムをUpdateしていかなければならない。

図2 定型的モデルと非定型的モデル。



3つの輪のモデル

医療はあるいは臨床医学はここに述べる3つのループによって活動が行われ,モデルの選択,モデルの改良が行われる。すなわち,臨床医学の進歩にはこれら3つのループが回転することが必要である[1]。

ループ1

ある特定の仕事を達成するための知識の応用であり,モデルに含まれている知識を用い,いくつかの測定に基づいて,モデルによって定められた行動を起こすことである。Model-measure-manageのサイクルである。たとえば糖尿病の管理などは,血糖の測定,その値によりモデルに含まれているレジュメにしたがってインスリン量を決めて,投与する。

ループ2
多くの場合,ある特定の仕事を成し遂げるのに,いくつかの異なる方法がある。モデルがいくつも作成可能であり、モデルを実行に移すいくつかの異なる方法がある場合もある。ループ2ではどのモデルと測定が適切であるかを決めるための過程である。糖尿病の管理の場合,インスリンにもいろいろ種類があり,投与法もいろいろあり、モニターの仕方にもいろいろな方法がある。どれがその患者に一番適しているかを決める過程がループ2である。

ループ3
ある特定の仕事を成し遂げるのに用いられる知識そのものを,そのoutcomeアウトカム(転帰)を検討しながら,検定するループである。臨床試験などがこれに相当する。

図3 医療は3つのループによって活動,改良が行われ,進歩する。患者のデータはデータベースに蓄えられ,必要に応じて参照される。いくつかの異なるモデルが作成され,それらはモデルライブラリーとして蓄えられ,必要に応じて参照され,最適と思われるモデルがライブラリーから選択され使用されるが,個々の患者に合わせてカスタム化も行われる。



医学の進歩

 医学の進歩は不可避であり,日進月歩で変わってゆく。進歩の原動力は病気で苦しみ悩んでいる人々をなんとか治してあげたいという人類に備わっている性質であり,新しい医学的発見を自分で成し遂げたいという自己実現の欲望であり,未知のものを明らかにしたいという好奇心であり,バイオテクノロジー分野で富をえようという欲望であり,"to write or to perish"というプレッシャーの中でキャリアアップを目指すのか、さまざまな要素が関係している。また、病気で苦しんでいる人の立場からいえば、なんとかして新しい治療法を開発して欲しいという気持ちが社会全体として医学の進歩を促すことにつながってゆく。資本主義の世界では医療経済学的原理に基づいて費用とそれからえられる便益をはかりにかけて,”割に合わないこと”はできない。しかし、医学の進歩は成熟段階にいたると医療費が減少することが示されており,進歩の段階が低い領域に対しては、研究費を投下して進歩を促すことが,最終的には医療費の低下にむすびつく[2]。したがって、あらゆる面から医学の進歩は不可避といえる。

図4 医学の進歩と医療費および病悩期間の関係。医療技術が進歩するに従い,医療費はいったん増加し,入院期間などの相対的病悩期間も長期化するが,さらに進歩すると医療費は減少し,病悩期間も短くなる。現時点でそれぞれの疾患がどの段階にあかを示す。



文献

[1] Coiera E: Guide to medical informatics, the internet and telemedicine. pp 45, 1997, Arnold, London, UK

[2] Pardes H, Manton KG, Lander ES, Tolley HD, Ullian AD, Palmer H: Effects of medical research on health care and economy. Science 1999;283:36-7.